しゃちほこファイナンス

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【B級戦犯】本間雅晴という男の生き様【炎熱商人モデル?】

令和という時代にはいって初めての夏が終わろうしている。意識せずとも時間は過ぎていき、1年、2年、3年と新しい時代も刻まれていくものと思う。

そんな最近、日本は韓国と喧嘩中の様だ。アメリカと中国もか。アジア全体がなんだか全体的に靄に包まれているような、そんな雰囲気だ。究極的な論理の飛躍かもしれないが、そんな状況を客観視していた僕は、第二次世界大戦下の世界情勢に想いを馳せた。

当時のyoutubeの動画、wikipediaなどを(夏季休暇をいただき平日の昼間に!)サーフィンしている中で「本間雅晴」というB級戦犯の男に出会ったので、今回はその人物についてご紹介したい。

 

1.B級戦犯本間雅晴」~マッカーサーの逆恨みで死んだ男~

 

本間雅晴は1887年1月27日に新潟・佐渡に生まれた。その後、陸軍士官学校陸軍大学校を経て、陸軍に入隊する。大学校を優等で卒業したというから、今でいうエリート官僚の類か。詳しくはWikipediaを参照されたし。

最終階級は陸軍中将。戦後、フィリピンにおけるバターン死の行進の責を問われ、マニラの裁判で死刑宣告を受け、そののち銃殺されている。

B級戦犯として処された男」

これだけであれば興味関心を惹かれることはなかったが、彼が「焼くな、殺すな、奪うな」という軍律を徹底していた、ロンドンへの駐在経験があった、首尾一貫して平和を切に願う男だった、ということより、何故そのような男が刑に処されたのか疑問を抱いた。そして、気づいたら次の書籍をamazonでポチっていたのである。  

いっさい夢にござ候 - 本間雅晴中将伝 (中公文庫)

いっさい夢にござ候 - 本間雅晴中将伝 (中公文庫)

 

 結論から言うと、フィリピンを愛してやまないマッカーサーを同国から追いやった結果、マ氏のプライドをひどく傷つけた。この逆恨みにより、戦後、本間は死刑という結論ありきのマニラ裁判にかけられ、死んだのだと思う。

※比国は米国の統治下にあり、マ氏は父の時代から2代にわたり治めていた。これを日本軍の行軍により奪われた。この時の比国行軍の指揮官が本間だったというわけだ。(結果的に再度米国が奪い返すような形になるのだが)

 

裁判においては、「バターン死の行進(詳しくはwikiご参照)」を筆頭に、米比に対する残虐な行為を証拠とされたわけだが、戦争という特殊状況下、現地の兵糧事情、組織における指揮系統のマヒなどを鑑みればやむを得ない事情あれど、いずれの事象に関しても本間の指示によるものとして、すべての責を背負うことになったわけ。

 

2.彼は単に泣き虫で腰抜けであったのか

 

 彼は泣き虫であったいう。ロンドン駐在時代、当時の妻に浮気され大泣きして酒をあおり、挙句自殺を図った。戦場に転がる味方の屍に手を合わせながら心を痛めた。マニラ裁判にて、夫の無罪潔白のため駆け付けた妻・富士子の言葉を聞いて、肩を震わせて嗚咽した。

彼は軍内部からは腰抜けと評された。精神論(時に非現実的な暴論ともなりうる)が行き交う軍内部において、それに惑わされない客観視・合理性を重視した(これはまた、欧米的・親英的と非難された)。大東亜戦争に勝つ、という大目的のもと、好戦的軍幹部が大勢いる中、いち早い終戦の必要性を説き、3度にわたり和平工作を試みた。一度は制圧したマニラにおいて、圧政は行わず比人の文化を尊重する軍政を敷いた。

戦時下の日本を取り巻く環境において、死を異常に美化された世界において、非難の対象になっていたであろうことは想像に易い。(東条英機とは互いに敵対していた関係性であったという)

 

確かに人間として優しすぎるがゆえにそれが時に「弱さ」として出現したこともあったろう。だが、一方で感じたのは、戦時下という環境においても生涯を通じて貫き通された意思、(彼の考えるものであったとしても)本当の「正しさ」を曲げない強さ、であった。それは「家族への愛」「不要な死への嫌悪」「敵国であったとしても尊敬の意を表する姿勢」に表れているように感じる。

 

神風特攻に代表される今となれば異常ともとれる作戦が正当戦法として認められる状況において、この一貫性を保つことがどれほど難儀であったか。併合するほうが易いことだったのではないか。このように思うと、彼に対する当時の評価について再考させられる。

 

こうした本間という人となりを知れば知るほど、彼が死刑に処されることとなったいくつもの罪状について、直接的に指示したとは考え難い。むしろ、彼の関知する範疇にてそのような動作が起こり得ようとしていたのであるならば、必ずそれを阻止する動きをしたに違いない。しかしながら、前線において生きるか死ぬかの日々を過ごしている兵士の心理的状況に想いを巡らせれば、ふとした拍子に感情的になり、人を殺めるという行為に及んでしまう可能性を完全に否定することは難しく、また、末端の兵士の一挙手一投足まで比国行軍の責任者である本間が完全に関知することが現実的に不可能であることも事実としてあったのであろう。

結果的に彼は、指示したという事実は無いながら、一方で現実として戦闘中に起こした軍の不祥事に関する責を一身に受けるということに、受刑の意義を見出し、1946年4月3日に、先に散った同胞の眠るマニラの地にて生涯を終えることとなった。

 

3.読了後に思ったこと

 

 「正しさを貫く」ということが、その環境下において必ずしも評価されないことへのもどかしさ。もっと日の当たるところに本間がいたのであれば、日本のたどる道は違ったほうであったかもしれない。

一方で、これは敗戦という事実ありきでの「正しさ」であり、仮に戦勝国となっていたら彼の考える「正しさ」など評価に値しないようなものだったかもしれない。

 

ただ、いずれの場合であっても、彼のどこか冷めたように見える時もある客観性・合理性は、何かに世間が狂しているときこそ必要な目線なのだろうと感じる。また、それを貫徹する意思、他に耳を傾けつつも惑わされない強さは信頼に値するのだろう。人としての弱さを惜しげもなくさらす姿にもひどく共感した。

時代は変わり、戦争なぞ野蛮な国での茶番劇、のような感覚である令和時代であったとしても、3つの四半世紀前に死んだ男から学ぶべきことはあるように感じたのであった。そして、この感覚を忘れないことが、大げさなれど歴史を繰り返さないための予防薬になるのではないかと思う。

 

PS:以前読んだ「炎熱商人」も舞台が比国であり、また、戦時中のシーンでは戦時下においては歯の浮くような理想主義ばかり述べる軍人がでてきた。彼はもしかすると本間をモデルにしていたのかもしれない。

yeswoman.hatenablog.com

 

以  上